突然息子が小児がんと宣告され、悲しみと絶望に打ちひしがれ、頭が混乱して何をして良いのかわからなかった私。そんな私が自身の経験を書くことによって、

子どもが小児がんになり、津波のようにやってくる感情や情報に押しつぶされそうになっている方の心を1人でも軽くしたい

と願ってブログ作成を決意し、その準備を開始したのがちょうど2019年の12月。そこから準備を進め、翌年の夏前には、「小児がんとともに生きるためのブログ」が立ち上がる予定でした。しかし、2020年1月に息子のがんが再発、2020年の6月にはがんの転移が発覚し、私の心の余裕が全くなくなり、ブログ作成は頓挫してしまいました。その後、息子の状態が悪化し、9月末に彼はこの世を旅立って行きました。当時計画していたブログの内容は、小児がん治療体験を通して親が感じたこと、経験したこと、学んだことを題材とする予定でした。しかし、息子が旅立ってしまった今、

「小児がんとともに生きるためのブログ」を立ち上げて、同じような境遇の人たちに希望を与えたいと思っていたのに、息子が旅立ってしまった今、そのブログはそれでも人を勇気づけることができるのか?

答えが見つからないまま、なかなかブログを立ち上げることができないでいました。しかし、グリーフケアとの出会いによって、息子との経験を語ろう、悲しみとともにに生きる様子を綴ろう、と心に変化があらわれていきました。

(私とグリーフケアとの出会いについて詳しく知りたい方は、こちらへ)

経験を綴ることで、息子の生きた証を残すことだけでなく、私へのヒーリングにもなるのではないか、と思っています。今まで生きてきた中で、最高に脆く、傷つきやすいからこそ、その経験を綴ることにも意味があるのではないかと感じています。

以下は、私の簡単なプロフィールです。

さいとう のりこ
齊藤 記子

1972年大阪府枚方市生まれ  スイス国ジュネーブ州在住
家族構成は、スイス人の夫と2人の子供の母親(長男2010年生、長女2015年生)

「障害」「多様性」「インクルージョン」「グローバル社会の異文化コミュニケーション」などのテーマに関心を持っている。

関西大学 英米文学部 卒業
イギリス国リーズ大学 社会学部社会政策科 障害学専攻 修士課程終了
現職は国際協力コンサルタント

大学卒業後、パシフィックサプライ(株)(KAWAMURAグループ)の貿易課に勤務。パシフィックサプライ(株)は、障害者や高齢者の福祉用具を輸入・販売する会社。福祉国家であるスウェーデンやドイツでの世界福祉機器展に参加し、カラフルな色を使った福祉機器や斬新なデザインの車椅子などを見て、日本の「障害」の見方と世界の味方の大きな違いに驚いた。

スイスのジュネーブに本部を置く世界保健機構 (WHO)の「障害とリハビリテーション」チームで2005年から2年半勤務。WHO在職中は、障害に関する世界報告書の作成等に参画。

WHO離職後、開発途上国での経験を積むため、日本協力機構(JICA)の専門家としてフィリピンに渡る機会を得る。フィリピンの農村のアクセシビリティや障害者に対する理解を深める目的で、フィリピンの障害当事者やフィリピン政府障害国家委員会、関連NGOと共にプロジェクトの計画・運営に従事。

その後、国際協力コンサルタントとして、JICA本部人間開発部社会保障課で「社会保障」と「障害と開発」の現状・課題について情報収集・整理・分析する業務に従事したり、その他、インドネシアのアクセシビリティに関する情報収集調査や、エジプトの情報アクセシビリティ分野のプロジェクト計画業務等に従事。

直近では、国連の障害者権利条約の委員会メンバーに日本で初めて当選した石川准氏のアシスタントを2017年から2020年まで年に2回務めた。審査対象国の政府および市民社会報告書に関する情報収集・分析を支援した。

■小児がんのこと

記憶を辿ってみると、ブログを始めたい気持ちは既に10年以上前からあったように思います。私のこれまでの性格上、失敗したら怖い、何か批判されたら怖い、やるなら完璧にと身構え過ぎて、なかなかスタートすることができませんでした。

その怖さを上回るような、書きたい衝動がマックスになった出来事が2018年に起きました。2018年8月31日、私の当時8歳の息子が小児がんの一種であるユーイング肉腫と診断されたのです。

「「青天の霹靂」ってこういう時に使うんだ…」

と実感した出来事でした。

診断後の私たちの生活は一変しました。スイスジュネーブ市のジュネーブ大学病院にて抗ガン剤治療、腫瘍摘出手術、陽子線治療を経験。小児がん治療のことなど何も知りません。医療機関のスタッフから発せられる言葉は聞きなれず、しかも英語あるいはフランス語であるために、私の脳はすぐに飽和状態になってしまいます。

息子の治療や当時2歳の長女の世話に専念する中、目まぐるしく過ぎていく日々の中で、様々な想いが頭を駆け巡りは消え、私の頭の中は思考で風船のようにパンパンに膨れ上がり、ガス抜きが必要だと感じました。

「全てを忘れる前に書き記しておきたい。」

という想いが一層強くなり、ブログ開設を決心をしたのです。ブログを書くのは、私の「発信したい」という自分の願望を満たすためと言っていいでしょう。

その一方で、私の経験と同じような経験をしている人の心に響くかもしれない。。。そんな想いもあります。病院のガン科で治療をしていると、様々な子供達の親御さんに出会います。ガンの種類も違えば、経験も背景も違います。でも、自分の子供がどうなってしまうのか、この世からいなくなってしまうかもしれないという同じ不安を抱えていて、気持ちに寄り添い励ましてもらい、救われた経験をしました。

「私1人じゃない…」

こう思えたことで、勇気づけられ、息子を支え続けていく力になりました。このような経験から、私の受けた恩を返す意味でも、自分の経験を発信する意義を感じていました。

■がんと障害のこと

私の人生で、がんと向き合うのは初めてではありませんでした。2度目です。13歳のとき、実兄が脳腫瘍を患い、2度の手術によって車椅子ユーザーとなりました。兄は、私が18歳の時に帰らぬ人となります。まさか、自分の息子もがんになるとは想像もしていませんでした。最初は、息子を見るたびに兄の闘病中のことや姿を思い出し、息子と兄をどうしても重ねてしまう日々。息子が兄と同じような境遇にあってしまうのではないかという恐怖が襲います。

兄のことがきっかけで、私は障害分野でのキャリアを積むことになります。大学卒業後の就職先が義肢装具製作会社の川村義肢の貿易課だったことも大きく影響します。それ以来20年以上に亘り障害分野で仕事を続けてきました。

27歳の時に米国カリフォルニア州サンディエゴへ留学して老年学を学びます。大学院で学ぶのは、これから日本でも重要となる高齢化か、あるいは障害か、非常に迷いました。結局、最終的に修士課程に選んだのは、英国リーズ大学の障害学でした。やはり、兄のことがずっと頭にあったのだと思います。

「障害の原因は、障害者自身にあるのではない。社会全体が障害者のニーズを考慮してデザインされていないから、障害者は社会生活において壁を経験する。障害者は、社会の構造によって障害者にさせられているのだ。」

ということを初めて学んだ時の衝撃は非常に大きなものでした。

「お兄ちゃんが車椅子でなかなか外出できなかったのは(1990年当時)、お兄ちゃん個人のせいではなくて、バリアフリーが整備されていなかった社会のせいなんだ。」

障害学を勉強して人の役に立ちたいと思いながらも、実は、自分の心の整理をしていたのかもしれません。障害者の方のエンパワメントに触れ、自分自身もエンパワメントされていったと言っていいでしょう。そういう意味で、障害学との出会いによって私の人生は大きく変わりました。

*エンパワメント(Empowerment)とは、英語の辞書によると、より強く、より自信を持つようになるプロセスであり、特に、自分の人生をコントロールし、自分の権利を擁護する際に使われる、とある(英語表現 – the process of becoming stronger and more confident, especially in controlling one’s life and claiming one’s rights.)。例えば、黒人や女性、障害者などのエンパワメントという言い方をよくする。つまり、歴史上、表現の自由を奪われ、自分の意思で人生をコントロールできずに弱い立場でいた人たちが、より強くなって自分の人生をコントロールするようになるプロセスのこと。

ブログの目的

このブログでは、息子の小児がん治療体験を通して親として私達が経験し感じたこと、そこから得た学びなどを共有するための場です。息子の治療に対する不安や恐怖、小児がん治療を継続していく上で変わったもの/変わらないもの、毎日の生活の様子、夫婦関係、スイスの小児がん治療の様子、治療に関わる多様な背景を持つ医療スタッフとのコミュニケーションの難しさなど、テーマはさまざまです。また、息子が旅立った後の私たちの経験を綴っていきます。